騒がしい煩わしい喧しい。俗世は律を犯す勇気も無い癖に。ああ疎ましい厭わしい。やたらに雑多で。ああ、嗚呼、こんな自分が一番……。ならばいっそ、整然としていた方が、
――どんなに良かっただろう。
それはそれで疎ましい。矢張り厭わしい。
風魔は平生より喰えない男ではあったが、このところは殊更に苛ついていることが多かった。大きな体躯を天守に投げ出して狼以外近寄ることを許さない。対処に困って主が零したのもあってそろそろなんとかしなければならないと今こうして居る、天井裏。人間の前ではあれほど不機嫌だったのに犬畜生にはどこか薄ら笑いを浮かべている。人間が嫌いならば山へでも帰ればいいものを。思いながら溜息。なんだか気持ち悪い。
「うぬも可愛がってほしいのか。」
宙を泳いだ風魔の声は己れに向けられたものだ。見留めるなり切り裂かれては敵わないと姿を隠していたものを、ばれていたのならばまた暴れないならば無意味と考え風魔と同じ高さに立った。
「それとも我を愉しませてくれるのか。」
この男の下卑た物言いはいつものことなので黙殺して歩み寄ると、風魔はこの時初めて己れの顔を見た。狼に向けていた笑顔のままで己れを見るものだからなんだか寒気がした。
「何をしている。」
寒々しい天守にこの声はよく響いた。対する風魔の声は囁くようでともすれば聞き逃すほど小さく「別に」と答える。ただし態度はでかい。そのでかい態度と図体の癖に、狼の一頭に寄り縋るように額を預けた。風魔の背丈が七尺もあるせいで狗に見えるのがどこか可笑しい。そう思っていると、狼の一頭が此方へゆっくりと歩いてきた。爪が床板を叩く音がこの天守にどうもそぐわないが、狼はそんなことを気にもかけずそのままの歩調で己れの後ろへ回る。後ろへ来たかと思うと頭で己れを押すのだ。飛びかかってきたわけではないので動くことはなかったが、それでも狼は前へ前へと己れを押す。仕方なく風魔の方へ歩みを進めれば確と己れを見ている。
「気が変わった。」
矢張り囁くような声で言うが早いが、腕を伸ばして己れの腕を掴んだ。間合いは心得ていたつもりでも、そもそもこの男には意味が無いのを今になって思い出し悔やんだ。莫迦ものだ己れは。力で敵うはずもなく引き寄せられるまま風魔の前に倒れ込むと、これ以上の不覚を曝すわけにもいかず即座に身を起こした。上げた頭の、顎を、すくと掴まれる。
「何がしたい。」
顎の腕を外そうとその腕を掴んでもびくともしないまま、せめて苦々しさを前面に押し出して言う。風魔は答えないで己れの顎を掴んだまま顔を傾けたりして只管己れの顔を覗き込むように見ている。放せ、と言うと青白い顔にぞくりとするほど赤い舌がその上唇と舐め回した。一瞬その様に目を取られている隙に、素顔を晒される。
「綺麗だな。」
言いながら目の下に走る傷痕をなぞる。なぞる指は余りにも淫靡で動くことが出来なくなった。そのまま風魔は暫く何が楽しいのか傷をなぞって居たが、己れが不図我に返って顔を背けた。その時の名残惜しむような顔がどうしてか己れを苛立たせた。
「…………。」
長い沈黙は湿った吐息で終わる。悔しさからか己れから風魔に、主の敵である其の男に噛みつくような接吻を仕掛けて、性的衝動を得たことに自分を恥じた。顔を覆う布を引き上げて元に戻すと一度だけ風魔を見て、立ち上がっては距離を取る。接吻を、嘘にしたくて。
「帰れ。」
帰れ、山に。お前が居ると己れは可笑しくなる。帰れ、闇に。風魔を振り返ると、其処には何も無かった。風も、魔も、狼も。ただ凶つ風が一陣、己れを吹き振りまいて。
騒がしい煩わしい喧しい。沈黙に徹した影の心が。ああ疎ましい厭わしい。拒む癖に惹きつける。ああ、嗚呼、そうだ我は混沌。せめて影の、うぬの心は、
――さぁ、うぬを侵食し壊してやろう。
それすらも叶わない。矢張り相容れない。