暗闇にもう一度だけ言葉が響いた。最後に言葉になるその声は、張り詰めて震えていた。
「半兵衛、俺達もう昔のようには戻れねぇんだな……。」
半兵衛、と呼びかけてはみたものの、それは独り言の体を為すばかりだ。或いは消え逝く希望の様相であり、また或いは皮肉に乗せた願望だった。
その男の言う"昔"が半兵衛にとって不愉快なものであることは、うっすらと白銀に輝いて見える髪から覗く表情が肯定している、仮面を付けていて猶不機嫌さを呈するまでに。半兵衛は返事の代わりに舌打ちを一つ打った。忘れた頃に訪ねて来ては秀吉に謝罪を促すその男、前田慶次は、昼間に傾奇で聞こえる風来坊とはまた別人のように真剣な様子だった。
「なら聞こう。秀吉は別として、僕と君が仲良く過ごした時間などあったかな。僕には秀吉の天下だけが大切なことだから、忘れてしまったよ。」
わざとらしく言い放つと、慶次は唇を噛み締めて半兵衛を見た。単に見るよりも睨むような様相で、それでも、その目に浮かぶのは悲しみの色だった。それを見た半兵衛の脳裏に、らしくもなくちょっとしたお巫戯蹴が浮かんだ。
「いいだろう。慶次君、仲直りだ。」
慶次が顔を上げて半兵衛を見た。白い肌と白い髪が闇夜に透けるようにぼんやりと光って見えた。
「お、応。」
光に向かって答える声が吃ったのは、慶次が急に答えを切り返した半兵衛に不信感を抱いたからだ。それでも半兵衛は不敵な笑みを零す。
「君は応えられるかい? 僕との仲直りだよ。」
繰り返すように半兵衛が言った。慶次は応える替わりに大きく開いていた距離を一歩、詰める。一歩、一歩。手を伸ばせば届くような距離まで来て、二人は再び沈黙した。けじめという名の踏ん切りが付かないでいた。
先に沈黙を破ったのは半兵衛の細やかな息遣いだった。周囲の空気だけを震わせてふわりと笑うような息遣い。そのまま緊張の糸が切れたように半兵衛は慶次の胸倉を掴み、引き寄せた。
口付け−−
……ではなかった。半兵衛が慶次の喉元に噛み付いたのだ。慶次はただ息を飲むばかりでさしたる抵抗を見せない。
「君の受容の器は大きいようで安心したよ。」
「半兵衛…、これが貴様の言う"仲直り"かよ。」
半兵衛の満足気な言葉を受けて慶次は、ともすれば喉元を噛み切られそうな恐怖を飲み下すように言った。抵抗しなかったのはただ慶次の気位故であった。小さな犬歯を突き立てられる感触が慶次の皮膚に残る。決して予断を許さない状況であるのに慶次より少なからず体格に劣る半兵衛がもたらしたのは甘い疼きだった。その事実が慶次の欲情を煽る。
「噛む。って、ねぇ、余程信用してないとお互いに出来ないものだよ。慶次君は僕に気を許してくれているものと思っていいのかな。」
怪しげな影を落とした表情で半兵衛が言うのを、慶次は信用ままならぬものとして受け取った。半兵衛は変わらず薄く笑みを浮かべて慶次を見ているだけだ。
「それがお前の……。」
「おっと、僕には時間がないんだ。」
慶次が言いかけた言葉を、半兵衛はその唇に指を当てて遮る。薄い顔色がほんのりと上気して見えるものだから、そのさまは慶次の目に妙になまめかしく映った。
「じゃあ、またね、慶次君。」
慶次に甘い疼きと白い闇を落として半兵衛は去った。後に、スッと噛まれた首筋をなぞる。